2012/04/25

【これからの「正義」の話をしよう】(後)

アファーマティブアクションなるものがる。


漢字で差別是正措置とかになるんじゃないかと思われるんだけど、
この言い方は実態を正確に表していない。
ある意味、被差別者優遇処置とでもいおうか。

たとえば、ある学校に受験した人種が、多様であったのにもかかわらず、
合格点数に達していた者が白人に集中していた場合、僅差で点数は劣っていても、
白人よりも、有色人種を入学させるように調整する。という感じ。

定員が100人で、有色人種が101番目の成績だったなどの場合、
100人目の白人の子は不合格として、
101人目の有色人種を繰り上げ合格させるというわけだ。


僕は、かねがね、差別は永久になくならない。という持論なわけだが、
だから、「差別を無くそう」なんて言い方には、僕はまったく賛同できないし、
そうゆう言い方こそが「差別」なんだと思っているわけだ。


だから、差別はなくすものではなくうまく付き合うものだと思っている。
そういった意味で、この、アファーマティブアクションはひとつの試みとして、
いいのではないかと思ったりもする。

もちろん、「すべての人によい方法」なんて存在しないわけで、
100人目で合格できたと喜んだその子やその親はぬか喜びを
させられてしまったわけだ。


別に有色人種を差別したわけでも、ズルをしたわけでもないのに。

これは、公平といえるのか?と問えば、
絶対に公平だなんていえない。と僕は思う。


日本にも、女性の職行機会均等や、部落差別、在日差別などが存在するが、
興味深いことに、このアファーマティブアクションを実施することができない。
なぜならば、憲法14条の法の下の平等に抵触する恐れがあるからだ。
確かに、被差別民を被差別民だからというので、制度に優遇を加えれば、
これは逆差別になってしまう。

「歓迎されるべき差別」なんて、
近くしかみえない望遠鏡みたいで、嵌りが悪すぎる。


アファーマティブアクションの必要性の無さについて、
ギリシャのあの有名なアリストテレスは、
人は埋まれながらにその役割を持っているという考え方を示しているそうだ。

まあ、今でもよく言われる、
人の生きる意味について悩む人に「キミにはキミの役割があるんだ!」みたいな
テレビの決め台詞的な、かっこいい意味で言っているわけではない。残念ながらね。

アリストテレスは、政治をする者は政治をする者として、
商売をする者は商売をする者として、
奴隷は奴隷をする者として初めからそのように産まれる。と考えたわけだ。
だから、奴隷に生まれたものが政治の勉強をするのは愚かだし、
商売人が政治をしたらろくなことにはならない。と思ったようだね。

そんなアリストテレスのいたアテネは、
アテネの血を継承するものでない限り、アテネ人として認めなかったとされている。


アリストテレス自身は、プラトンの主催するアテネで学び、
一端はアテネを離れたが、数年後にふたたびアテネに戻り、学校を開いている。
それでも誰も彼のことはマケドニア人としてあつかい、
アテネ人としては、誰も評価しなかった。


彼は王の家庭教師まで勤めた男なのにである。
彼は自分のその扱われ方を当然と思えたのだろうか?

地勢状の問題はあったとはいえるが、民主主義の祖となったアテネは、
それでも、後続のローマ帝国ほどには、繁栄も継続もできなかったのは、
よそ者を受け入れる度量の有り無しに大きく影響されたのだと、
『ローマ人の物語』の著者、塩野七生は主張している。


ローマは、奴隷を奴隷のままでいさせることに執着しなかったし、
純潔にも執着しなかった。
だから、ケルト人でもゲルマン人でもマケドニア人でも、
皇帝になることができたのだ。
むしろ、ローマ帝国の消滅は蛮族の侵略というよりも、
民主主義的開放性を捨てて、宗教的閉鎖性を国の政に取り入れたがゆへだった。


アファーマティブアクションが、
このローマ帝国の解放性と同じものだったとはいえない。
ただいずれにせよ、閉じた社会は思わぬ方向から風穴を開けられたときに、
対応できる柔軟性を持てない。多様性による衝撃のクッションを持たないからだ。

ルールという出発点を、それをゴールだと勘違いしたとき、
自分で自分の首を絞める結果を招くという話が、
第8章のゴルフカートの例題で出てくる。


ゴルファーはそれがプロであるがためにカートを使うことをルール違反だと主張したが、なぜルール違反なのかの具体的な理由を証明できないのでは、
ルールだからという理由に拘束されているだけである。
逆に、ルールがそれをOKした場合の彼らの主張は、
笛を吹いたのに誰も聞いてくれていなかったほどの恥ずかしさになる。

ちなみに、イギリスの超有名な理論物理学者ホーキング博士は、
重度の筋萎縮性側索硬化症によって、自分の声で話すことができなくなっている。
よって、彼の会話はいつも機械を通すことになるわけだが、
だから彼がどんなにすばらしい研究結果を発表しても、
それは機械のお陰だとと言う人はいまい。


アファーマティブアクションが一定の才能に対して、
それを阻害する可能性は否定できない。
100番目に合格した白人の方が、後により多くの貢献を果たすかもしれなかったし、
101番目だったが合格した人が、後に重大で深刻な犯罪を起こさないとも限らない。
とかいう可能性をいい出したら、まさに切が無い。

マイノリティーが劣る存在であるとか、
男性が女性よりも能力面で勝るなんてのは、単純に決め付けて、
「させてこなかったから」に過ぎない。と僕は思っている。

マジョリティーにだって、つまらない奴は多いし、
男にだって運転の下手な奴はいくらでもいる。
チャンスは差別してでもあったほうがいいと僕は思う。

第9章では、コミュニティ内における個人のあり方について、考察がされている。
過去に起こした戦争やその渦中で行った蛮行に対して、
謝罪や補償を後代の人々がするべきか?という日本人にしてみれば、
むずむずするくらい直球な問題定義でもあるわなぁ。

ある韓国人と日本人の知人との会話を聞いたことがある。

日本人が過去の戦争で朝鮮半島にした所業や慰安婦問題に関して、
日本人の彼が謝罪めいたことを言うと、韓国人の彼は
「それは君がしたことじゃない。昔の人がしたことで君が謝る必要はない。」
と言う内容だ。

これは、韓国人の中では決して多数派ではない意見だとは思う。
こうゆうのをリベラリストというのだろうけど、
少なくとも儒教心の強い韓国がリベラルな国だとは韓国擁護派の僕としても、
言うことはできない。

日本でもしかりだ。
ある犯罪者の家族は、その家族であったというだけで、
被害者への謝罪を要求され、これまでどおりの生活をおくることさへ、否定される。
それが日本の今の現状だからだ。

僕の目にはそれは正しいことには見えない。

罪は、それを行った者のみが裁かれるべきで、
コミュニティーが一緒だったというだけで、同罪に処されるなんてのは、
過ぎた処断にしか思えない。

大学や高校でのたった一人の部員の不祥事が、
部全体の責任とされるという処置も納得できない。
そもそも、その生徒はその部の一員だっただけでなく、その学校の一員でもあったのだ。
どうしても処罰が必要なら学校ごと処罰すべきだろう。


そもそも人は、自分の意思で親を選択し、
自由に自分の産まれたい時に産まれてきたわけではない。
存在しない自分にそんな意思は持てるはずがないからだ。

逆を言えば、自分を生んでくれるはずの親が、出会わなければ、
自分は存在せず、出会っても結婚や子供を望まなければ、
自分は産まれてくることからできなかったことになる。
産む方の親も選択肢が無いことでは代わりが無い。


将来どんな大人になるかは(もちろん親の影響も無いとはいわないが)、
その当てが思い道理にできるなんてのは、ごくまれな、それこそたまたまな話だ。
好き好んで、病弱な子を産む親はいないし、
生まれてくる子が億万長者になることを知って産むなんてこともありえない。

自分の選ばなかった、時、場所、方法で生まれてきた僕に、
過去の人の責任までを負えというのは酷だ。

ただし、これから起こるであろうコミュニティ内の
誰かが起こすかもしれない過失について、それを知っていて放置すれば、
同罪とまでは言わなくとも、ほう助には当たるかもしれない。

そういった意味で、原発の再稼動を反対したり、TPPに反対するという行動は、
その結果が正しい方向に向かうかどうかは別にしても、
コミュニティーの中にいるものとしての
責任を果たそうと努力しているとは言えるのかもしれない。


その意味で、9章の中ほどで紹介されている、
アラスデア・マッキンタイアの『我々は物語の探求としての人生を生きる』という
考え方は、面白いと思った。

我々は、それぞれがある物語の中に放り込まれる主人公であり、
筋書きの無いその物語は、主人公とその周りの脇役の行動如何で、変わっていく。
ただし、物語は物語に放り込まれる、その以前からすで進行していたのだから、
その自分の産まれる前の筋書きを変更することはできない。
だからその筋書きを前提に、自分の役を自分なりに演じる。

どこか、聖書的なにおいを感じる考え方だけど、
賛同できる部分は多いように思える。


「人生は舞台だ」と言ったのが誰だったかは知らないが、
正直、そんな軽いものか?という疑問はあった。
筋書きが出来上がっており、展開も結末も演じる本人から知っている。
そんな便利な状況、別な見方をすればそんな超つまらない生き方を人生だというのなら、
悔しさや悲しさであふれる涙や、腹から笑えるはずの出来事は全部、
空虚なモノでしかなくなる。

マッキンタイアのいう物語は、筋書きではなく、
これまでに紡がれた物語に出番を得た自分が、そこからさらに役を選択する。
というものだ。


もちろん、制限された選択肢しかないが、
その選択肢の向こうにある次の選択肢を知ることはない、
予定されていない未来を演じるという意味でなら、筋書きは無いのだから、
エキサイティングでさへある。
ヒーローになるか、ヒールになるかは、その選択によるわけだ。


ただし、僕はここにもひとつ疑問を感じる。
マッキンタイアは、その選択肢をどれだけの広さや数、概念で考えたのだろう?

ネット上を見るとよく、生活保護を受ける人や、ニートに対して、
努力が足りない。と言う言葉を投げかける。
働きたくない者が働かずに自分の生活を困窮させるのは自業自得だが、
自分のおかれた環境から脱出するすべを、何処にも見出せない人というのもいる。

僕はこれを、「回転寿司理論」と名付けたいと思うw

回転寿司といっても、
中央に板さんがいてその周りをすしが流れるタイプじゃなくて、
厨房と客室が分離されているタイプのそれだ。
今は何処でも当たり前になっている、注文用端末や、
呼んだら来てくれる店員もいない店だと仮定してほしい。

ただ、席を案内する店員だけがいる状態だ。

しかも超人気店で、人が外に番号札を持って並んで待っている。そんな店。

出来上がった寿司が一番最初に現れる、いわゆる、回転路の出口に近いとか、
それこそ、その最初の席に座っている人は、
出てきた先から自分の食べたいネタを真っ先に取って食べることができるが、
席が後になればなるほど、選択肢は少なくなる。
下手をすれば末端の席の人は寿司を永遠に食べられないかもしれない。

後から来たものは、一番前の席に座りたくても、
そこの客がどかない限りそこに座ることはできない。
外で待っている間に空いた席が一番前でなく、
途中だったり後半だったりするかもしれない。
「いや俺は一番前に座りたいんだ」と言う主張は通用しない。
空いてる席に座るのが嫌なら、順番を譲るか、食べるのをあきらめるかだ。

僕らは選択したと思っているその選択肢は実は「空いた席」でしかなく、
つまりそこに座るという選択肢しかなかった。
大トロが来てくれるのはいつになることやら・・・。


僕らは僕らが選ばなかった責任を押し付けられ、義務を押し付けられ、
行使できるはずの権利を贅沢だと非難されるか、
行使したところで状況はあまり変わらない。
そんな世界にいる。そう思ったことはない?


僕らの正義は本当に正義なのだろうか?


民主主義が紡ぎだした、価値観はそんなにも正しくて、
独裁政府下の価値観は何処までも悪なのだろうか?

イラクのフセインは資本主義国から悪の枢軸とまで言われたが、
少なくともあの抑圧のあったおかげで、原理主義者のテロによる死は、ほぼなかった。
死なないことが正義ではないのは承知だが、正義を行ったつもりの資本主義国は、
テロという流血を止めることができないでいるのも事実だ。


正義とは、時代によって変化する価値観であるから、
昔が間違っており、今が正しいとは言えない。
何しろこれから千年後の人が21世紀の正義を正義だった
と見てくれる補償は何処にもない。


家父長権が強かった紀元前、父親は妻や子供たちの躾どころか、
殺生与奪の権利までも持っていた。

旧約聖書のアブラハムは、
自分の子供を神にいけにえとしてささげることを迷わなかったのは、
信仰のゆへだけだったとは思えない。

家父長権を前提とした常識がまずあったからこそ、
アブラハムは迷わなかったのだ。

だが、それは違うと示したのが神様だった。
アブラハムの信仰をゆるぎないものと見た神は、
家父長権という伝家の宝刀を振り回すことが絶対の正義ではないことを、
この話で示した。

キリストの時代にも、キリストは、
過去の正義を組みなおすという手法で、正義を新しくした。


僕らの正義も、いつか新しくなる。
それを受け入れるという選択肢こそ、僕らの正義であるのかもしれない。

この『これからの「正義」』は、早い話、
正義を定義するのは、人、モノ、事、時、の総合体なのか、個別な何かなのか?
という問いをし続けているんだと解釈しました。


サンデルさん自身の答えは、
結論とはいえないけどと前置きして「やってみないことには、わからない」という、
小学生でも導き出せる結論を提示してくれているのだけど、
いや、これは笑っちゃいけないのよ。

哲学ってのは、出せない答えの研究なわけだから、
「やってみないことには、わからない」というのは究極の答えなわけでもあるからね。


これまで、アリストテレスやカントやベンサムや数々の哲学者たちの、
突っ込みどころ満載の答えを披露して、弱点と正論を掻き回した挙句、
答えは丸投げってのも酷い話だけど、
これは「考えることを止めるな」という忠告でもあるんだと思う。

考えることを止めた人たちはロボットになるしかなく、
ロボットは誰かの正義で動くしかない。
その先が道の切れた断崖絶壁でも、落ちるに任せて、粉々に砕け散ろうと、
知ったことじゃない。なんて人生はやはり、嫌だからね。


だから、僕はクリスチャンであることを良しとしても、
様々な哲学や宗教論に興味を持ちたいし、『聖書』を誤謬のない完璧な本としては、
受け入れる気にはなれないと思っている。

ただ、だからというので、宗教と政治論の関連性を完全否定するつもりはない。
と言うか、「政治論」というのは、「宗教論」の新しい言い方に過ぎないと
僕は思っているからだ。

『価値観』がいつ生まれたかは知らないけれど、先日、
熊でも閉じ込められているという状況を「よし」とはしない価値観があったからこそ、
ここぞとばかりに脱出したわけだしね。

人間の場合は多分、世代順の経験を基にした価値観から始まったのだろうけど、
大きなコミュニティーを支える上で、宗教(神)という価値観は、
とても便利がよかったのだろうと思う。


一神教であろうが、多神教であろうが、価値観はまず神にあって、
その価値観が上から下されたものか下から真似たものかのかの違いが有るだけだ。

『ローマ人の物語』の著者の塩野さんはどうしても、一神教は押さえつけ、
多神教は寛容であるという論法を展開しがちだけど、
「いじめ、かっこ悪い」というのと、
「いじめ、好きにすれば」のどっちが、素敵か考えるだけで、答えは出そうなもんだ。

それに過激な行動を取るがゆえに一神教を非寛容だという論法は、
単純に過激な奴らが教えを勘違いしてるだけであって、
過激を絶対の是とするのはカルトくらいのもんだ。


そもそも、人を過激な行動に追い立てるのは、一神教に限った話じゃないしね。
ポルポトは一神教じゃなかったし、
日米安保時に世間を騒がせた赤軍も一神教とは関係ないっしょ?
ソ連は宗教を完全否定した後、大量の虐殺を行ったしね。

「イデオロギー」というのは、
結局「宗教」の言い換えに過ぎないと思うのは、そこら辺りからですな。

逆に、リンカーンはキリスト教信仰のゆえに、黒人差別を否定したし、
キング牧師は無抵抗運動を提唱したしね。

まあ、ブッシュさんとかみたいに、聖書に手を置いて、
イラクと戦争します。って宣言する人もいるにはいたけど、あれは、
キリスト教がおかしいのじゃなくて、そうゆう宣言をしてしまえる曲解や、
ご都合主義的に無茶な解釈する方に問題があるのよ。


リベラリストだって、個人の自由を尊重するからといって、
「自由に殺したい人を殺してもいい」とか解釈されちゃ、迷惑な話っしょ?


だいたい、
現在の『価値観』が宗教にまったく支配されていないというのは、おごりだと思う。
普段、何気ない価値観でさへ、親を敬うとか、
人に迷惑をかけないとか、感謝するとかいうのは、どこの宗教でも教えているし、
それを宗教の一部だと理解できないほど、浸透しとしてまっている。

いや、宗教が無くても人は正しく活きられる。なんてのはぜひ、
1000年前のゲルマン人やフン族に言い聞かせてほしいものだ。
彼らには他コミュニティーの人々を殺戮し持ち物を略奪することに、
良心の呵責なんて微塵も無かった。
彼らが農法図な暴力から距離を置いたのは、
何も農耕民族になったからだけが理由なんかじゃない。
宗教がそれは正しくない価値観だと教えたからだ。


だから、、政治的な話をするときに宗教思想を持ち込むのは、
間違いだという物言いは、そもそもできない相談だと僕は思う。
ただし、暴力的な頑なさを振りかざして、人の話を聞かないなんてのは、ナンセンスだ。
しかもそれは、何度も書くが、(まともな)宗教が望んでいる方法論じゃない。


僕らは、『思想』という新しい『宗教』によって、
共同体の中で、いかに強調しあうか、不平等や差別という、
無くせるはずの無い『本能』に、どんなうまいウソをつき続けるかを、
考えるという問題に色々な脚色を試みる。
哲学とは僕から見てそう見える。


マイケルさんの言うとおり、まさに「やってみないことには、わからない」が、
とりあえず、未だに成功例は無いという状況の中で。



というわけで、やっぱり僕は僕の『回転寿司の理論』を押す!




【今日の作品】【これからの「正義」の話をしよう】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

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