2012/04/04

【これからの「正義」の話をしよう】(前)

最近の書籍は、厚手の紙で、文字大きめで、
余白たっぷりなのが流行だと誰かが言ってたのだけど、
このサンデルさんの本はそれらすべてから逆行した、活字嫌いには、
開くのもイヤになりそうな、文字量。はじめの4ページを読んだだけで、
こりゃいかん!と思ったさ。難しすぎる。


で、このサンデルさんのすごいなと思うところは、
難解さとかかそうゆうことじゃなくて、この人の、スタンス。

講義の放送を聞いていても思ったし、
4ページ目まで読んだところで思ったんだけど、
絶えずいくつかの考え方を紹介するのに、
自分はそのどれを一番支持するかという表明が、
かもし出されてさへいないということ。

普通、話すにしても、書くにしても、特に僕なんてそうだけど、
中立な立場を装いながらも、自分の支持する考え方があって、
表現のそこかしこに、その部分があらわになるものだけど、
サンデルさんは、それが見えない。
学生たちに討論させて、そのどちらにも突っ込みを入れたり、
意見として参考にしたりしている。


当人はコミュニタリアンに属するらしいけど、そのコミュニタリアンを、
何ぞやと思ってウィキで調べたら、やっぱりさっぱり分からなかった。
日本語にすると共同体主義となるので、じゃあ、共産主義や社会主義なのかと思ったら、
それは間違いで、リベラリズムよりは、ちょっと、全体主義的なだけ?
でも全体主義でもない。
ものすごくとぶっちゃけていうなら、日本の察しと思いやり的なものではないかと。


僕の場合、読書感想文とか言いながら、その実、著者に突っ込みまくるのが、
スタイルで、それなのに、今回のこの本の場合、
突っ込むことが非常に難しいことが判明。
得意技を封じられてしまったような焦燥感を禁じえないのである。
もうね、著者が突っ込んでいる人や事を一緒になって突っ込みを入れるなんて、
みっともないことはやりたかないんだけど、戦法変更も致し方ない。


そこにある最初の内容は、
2004年のハリケーン「チャーリー」の通過後に
実際に起こった出来事からの考察な分けだ。

台風一過、物資や家屋の倒壊などで、家をあぶりだされた人に対して、
物資やサービスを通常の価格よりも5倍以上にも値を吊り上げて、売る行為。
いわゆる「便乗値上げ」を、肯定するか、否定するかというもの。

僕なんかは、当然、「許せねぇ!」と思う立場だけど、経済学者の中には、
「便乗値上げ、いいんじゃね?」って考える人がいるらしい。
物の値段は、欲する人の量と生産できる量で決まるということらしい。
つまり、より高いお金を出せる人の付けた値段がその商品の値段となるってことやね。
無茶な考え方だなぁとか思う。いやいや、分からなくはないのよ。
ある意味、商品の値段ってのはそうやって決まるものだと思う。
でもね、それって一側面だべ?とも思うのよ。


サンデルさんは指摘してないけど、学者っつうのはなんでいつも、
片側からしか見ないのかなぁ? と常頭ね思う。
この肯定論学者の言うことには、商品の値段が高騰することによって、
それでも売れると思った業者がそこに集まり、生産数を上げるので、
経済的効果があるというのよ。ほらね。
一側面しか見ていない。

もし僕がその場にいて、便乗値上げにぶち当たったら、
その場では仕方なくその店で買うだろうけど、自体が沈静化して、
市場が元に戻った時点でも、やっぱりその店を利用するだろうか?

私だったら利用しない。ちょっと遠くても別の店に行くさ。

便乗値上げは、その場では一時的に儲かるかもしれないけど、
いつまでもその状態を続けることができるわけじゃない。
事態が収集した後に、便乗値上げによる、恨みや疑心で、
その店の信用はがた落ちになり、
むしろ売り上げが落ちる可能瀬のほうが高くないかと?
それでも便乗値上げが、経済効果があるといえるのだろうか?


サンデルさんは、この話で、道徳について問うている。
まあ、ぶっちゃけて言うと、サンデルさんは便乗値上げを、
道徳的ではないと談じている。僕もその意見には賛成。
それに、道徳うんぬん以前に、人の心情に付いて考えれば、
一時的な目先の利益に走り回りを踏みつけることは、
むしろ周りからの信頼を失う行為で、損得勘定でも得策ではないと思われる。



『パープルハート勲章』

アメリカにはパープルハート勲章というものがあるらしい。
戦場で負傷した兵に送られる勲章ではあるのだが、この勲章は精神的な傷は、
対象にしていないということだ。
このことをこの著者のサンデルさんはどうやら、あんまり、
よいことだとは思っていないらしい。
精神的といえども戦場で受けたものなのだから、
勲章をもらう資格はある。というわけだ。

これを反対する側の理由としては、精神障害は、その人の弱さが原因であって、
勇敢に戦った結果のものではない。ということらしい。

どうなんだろう? 怪我をした兵士全員が、勇敢に戦った結果の傷なんだろうかと。
実は逃げ出そうとした拍子の怪我かもしれないし、
後方で戦闘とは関係ない不注意による怪我かもしれないのに、
それらは勲章の対象になるのだろうか?


それでも、私は反対派の方に分があると思っている。
やはり、精神的障害(トラウマ)を受けるのは、
使命感や愛国心があるないにかかわらず、
迷いがあったからではないか?と思うからだ。
人を殺すことの迷い、自分が死ぬかもしれないという迷い。
仲間が目の前で死んでいく恐怖、戦争そのものの意義に対する疑問。
それらが現実に目の前で起こることを、許容しきれない自分を作り出し、
精神的障害を受けたのではないか?
積極的に迷いなく戦うものが、トラウマに襲われることは、
ほとんどないだろうと思われる。

勲章というのは、誇りであるべきで、慰めではないと思う。
迷ったものを慰めるために、勲章をばら撒くようでは、
勲章の本来の意味は失われるだろう。
こう考えるのは、やっぱり私が、やっぱり右派だからだろうか?



『暴走する路面電車編』

サンデルさんは、昔から問われているテーマである、「トロッコ問題」を、
路面電車に置き換えて話を進めている。

この話の要点は、ああすればいいじゃん、こうすればいいじゃんということではなく、
5人対1人、どちらを選ぶか?、
選んだときに感じる自分の心理はどんなものか?を問うている物語だ。

叫べばいいじゃんとか、そのスピードじゃ曲がれないとか、運がどうこうとか、
そうゆう事を問うているのじゃないわけよ。
ぶっちっければ、シチュエーションなんてどうでもよくて、問いたいのは、
5対1の理論な分けだな。

ただ、トロッコ問題というのは、外から、軌道を操作するので、何もしなければ、
自分はかかわりがないといえてしまうのに対して、路面電車の運転手な場合は、
どちらの道を選んでも自分の責任となるのがぜんぜん違うインパクトになっている。
という意味でサンデルさんは、路面電車を選んだのだろう。
実際、トロッコ問題は、「何もしない」という人がいる。
5人を生かすために、軌道を変更すれば、それは一人を殺すことになる。
殺人はいけないことだから、何もしない。という考えだ。
何もせずただ黙って五人の死ぬのを見守るわけだな。でもそれでも、私は思うんだ。
軌道を動かせば、五人が死なないで済むことを知っていながら、
何もしないということは、
何もしないという行動を起こしたということにはならないかと。
手は血に染めてなくても、心にはたっぷり返り血を浴びているんじゃないの?と。


この例えを地で行っているというか、複雑にした話が、この本で紹介されている。
難破した船から何とか脱出した船員たちの物語。食料が尽きたとき、
他の者が生き延びるために船員一人を殺して、みんなで食したというもの。
もうひとつは、アフガニスタンでの米軍の侵入ミッションが、大失敗する話だ。
数人の仲間と潜伏していた先で、ヤギ飼いに出くわしてしまい、
それを処理しなかったがために部隊が一人を残して全滅してしまったという物語。

船の話の方は、そうしなければ、確実に全員が全滅していた可能性は高い。
でもアフガニスタンの話は、より複雑で、不確定要素がありすぎて、
判断を難しくしている。
あるいは、ベトナムや北朝鮮と戦ったことのある兵士や、
その話を聞いている兵士ならば、そのヤギ飼いを殺すことを提案したかもしれない。
民兵ゲリラの恐ろしさをよく知っているからだ。
しかし、体験のない者にその判断はなかなかできるものではないだろう。


サンデルさんは、これらの問に、自身の答えは表明していない。
功利主義と呼ばれる、いわゆる、数の理論的幸福論者や、
リバタリアンという個人絶対主義論者の考え方、そして、
カントの考え方を紹介しているに過ぎない。

僕は、トロッコや路面電車の例えならば、5人が生き残る方を選ぶといえる。
でも、アフガンのそれは、どうにも判断できない。サンデルさんの言うように、
ヤギ飼いたちは、通報しないかもしれないし、通報しても、
ゲリラは襲ってこないかもしれない。
ゲリラが襲ってきても、こちらが勝てるかもしれない。
殺す理由が、判然としないのだ。

村の平和のために子供を地下に閉じ込めておくという例えもあった。
確実な論拠や、目に見える証拠があったとしても、
それは正しいことのようには見えない。
ではだから、村が亡んでもよいのか?
究極の選択とはまさにこのような選択のことなんだろうなぁ。


時に、サンデルさんは言及しなかったのだけど、
もうひとつの例を考えてみた。
「蜘蛛の糸」の話だ。
主人公のカンダタが垂れ下がった蜘蛛の糸を登るとき、
後ろから大勢の者が一緒に登ってきたという件。
どう考えても、糸は、その人数に耐え切れない。
そのままにしておけば、糸は切れて、その大勢も、また、自分も、
地獄の池に舞い戻ることになる。
カンダタは、自分より下の糸を故意に切って、下から付いてくるものを、
落とすべきだろうか?そうすれば、確実に一人は助かるのだが?

今度は、5人対一人ではない。一人か、全員かの選択だ。
どちらにしても、助からないその他大勢と、助かるかもしれない一人の命。
さあどうする?



『功利主義編』

ジェレミー・ベンサムという「功利主義」提唱者が紹介されている。
個人は多くの人の幸せのためにあるという考え方の人というと、
ちょっと言いすぎだけど、でもま、そんな感じのことを主張している人。
だから、「功利主義の弱みは個人の権利を尊重しないことだ」と反論する人がいるわけ。
前に書いた感想での5人と1人、どっちを選ぶ?という問に、
5人が生き残る方を選ぶとするのは、単純に見れば、
この功利主義に分類されてしまう回答らしい。
ま、僕の場合は、5人の家族に謝罪に回るより、1人の家族で済む方が、
気持ち的に楽だからという理由なので、功利には当てはまらないんじゃないかと、
個人的には密に思っている。

この話の例の中で、「テロリストの拷問」の正当性について語られていた。
アメリカのドラマ「24」でもシーズン7でおもっきし主人公の足を引っ張る方向で
取り上げられたテーマだ。
ジャック・バウワーは、核爆弾のありかをはかせるために、
前のシーズンで容疑者を拷問したということが、憲法に反するということで、
聴聞会にかけられるという展開だな。
その急先鋒だった、人物は結局テロリストに殺されるわけだが。
ベンサムの理論だと、この拷問は許されるということになる。
最大幸福を守るための一人の犠牲はOKなのだから。でもこれは、例えが悪いよね。
明らかな悪党なんだから、かばう方がおかしいと、誰でも思うもの。


ベンサムさんは「われわれは快や苦の感覚に支配されている」としている。
誰もが快楽を好み、苦痛を嫌うというわけだ。で、だからどんな行為でも出来事でも、
快か苦で統一できるとするわけだ。統一できるので、量計できる。そう考えた。
つまり、絶対多数の快楽こそが道徳だという意見だ。
それに賛同するエドワード・ソーンダイクさんは、
それを証明するために学生にアンケートを行ったらしい。
様々な苦痛の例を提案して、君ならこの苦痛を幾らでなら、
感受できるかというアンケートだ。
なんと、意味のないアンケートかと思ってしまうが、
本人はいたって真面目に結論を出せると思っていた。そりゃ、数字はでるさね。
出るけど、競りじゃねぇんだから、個人個人で違う数字を書くだろうに。

というわけで、著者のサンデルさんは、
それは違うんでない?と他の人の意見を紹介している。
人の道徳というのは、それが強制されたり、
外からの要因ですることではなくて自分の純粋に、
それが目的であり結果である場合が道徳だと。

たとえ自分が好まない結果であっても、それが道徳として正しいなら、
そうすることが、道徳だと。でも、これはこれで違うんじゃないかと思う。
むしろ、僕も、人は快や苦の感覚に支配されていると思うからね。

死にたい人なんて普通いないよね。自殺志願者でもなければ。
(もっとも三万人超えが自殺してる日本では説得力も薄いけど)その死にたくない人が、
自分の命を賭してでも誰かの命を助けるというのは、正義だし道徳だと思うわけよ。
そのときの彼の感覚って、死にたくない自分がそれでも人を助けている。
という満足感と、その人が助かることへの期待感があると思うわけだ。
それって、「快」だよねと。

もうひとつ。誰かの罪を告発するとき、その誰かが自分の愛する人で、
本当は刑務所になんか行かせたくないと思っているんだけど、
正義のために告発したって場合、自分は正義を通したという満足があると思うんだ。
少なくとも、言い分けると思うんだな。それって「快」だべ?と。


ちなみに、この二章の中に出てくる「キリスト教徒をライオンに投げ与える」催しは、
そんなにヒットしなかったらしくて、というかむしろ、
「ちょっと残酷すぎね?」「別に、悪さしてる人たちじゃないのに?」
という不評を買うことも有ったらしいですな。
まるで、常時やってたみたいな話になっているのは、
キリスト教系政府となったローマが、過去の皇帝を非難し、
現政府の正当性をアッピールするための、誇張だったというわけだな。



『リバタリアン編』

リバタリアンというのは、自由絶対主義というか、
いちいち干渉してんじゃねぇ!主義。
どうやら、リバタリアンって、バイクに乗るときのヘルメットの義務化や、
車に乗るときのベルトの義務化も、余計なお世話であるらしい。
それで、怪我したり死んだって、本人の責任であって、
かんけぇねぇじゃん!という人たちらしい。

そんなわけないわな。
関係ないで、放置できるわけがないわけで。
怪我すりゃ、医療費がかかるし、そのために人が働かないといけない。
死ねば、死体の処理とか、死因の調査とか、手間はものすごくかかる。

でもリバタリアンは言うんだ。
治療費は、怪我した奴が出すんだし、
医者は対価を受けてそれを治療するんだから、誰も困らない。とね。
出せねぇ奴はどうすんだろ?出せないのが悪いからほっとっけって?
それに、怪我したり死んだ奴が、会社や組織で重要な役割の人だったら?
その人が欠けることで、深刻な問題が起こる場合は?
リバタリアンは自由のために、不自由になる人の事を考えてないよね。
そう思ったね。


第三章で、サンデルさんは、徴兵制と志願制、腎臓の売買問題、
代理母の問題をテーマにしている。
リバタリアン的には徴兵制は受け入れられないとなる。
私も徴兵制には反対だが、実はこの徴兵制の例えはブラフで、
本当は、貧しい人のために、お金持ちから、お金を強制的に取り上げるのは、
正しいか?という問いかけが隠れている。
リバタリアンは、金持ちの中で、寄付したいものが寄付すりゃいい。としている。
無理やり取るのは、徴兵制と同じだと。徴兵制は反対だけど、
貧しい人を助けるための、強制徴募は、賛成という人にはこれは痛い指摘だ。

実は、僕は、強制はいかんと思っている。
自主的に寄付するならぜんぜんオッケーだけど、強制はあんまよくないよね。
そういった意味では、先ごろ、ビルゲイツの呼びかけで、
資産の数割を自主的に寄付する呼びかけってのは、理想的だと思う。
サンデルさんは参加したのかな?


でもね、圧倒的に、出したくない人の方が多くないかと?思うんだな。
特に日本なんて、寄付する金に糸目をつけまくるでしょ。寄付される額も小さいし。
24時間テレビとか、子供がペットボトルにためた小銭を集めてるだけだべ?

色々な慈善団体がいるけど、そのほとんどは、ジリ貧で、風前の灯の中、
使命感だけで続けてるような感じだもんね。
そうゆうのを見るとね。強制もしかたねぇんじゃねぇかと思えてしまったりするさ。

ああ、でも島田紳助のやり方って、面白いかったな~って思た。
カンボジア支援の金の集め方とか、パフォーマンス業の人に対する、
ギャラの出させ方とか、うまいこと、小金持ちを釣ってるなぁって。
「世界1のSHOWタイム~ギャラを決めるのはアナタ~」って番組は、
普段、一回の興行では絶対にそこまでは稼げないだろう人たちに、
高額ギャラをつかませて上げるという。
あの覆面四人組なんて、普段は一回の興行で、数千円とかの世界だろうに、
年収並じゃないかという収入を手にできてるもんねぇ。紳助さん、尊敬する。


何にしても、リバタリアンさんってのは、
自由には責任がセットだという意識が欠落している人の事?と思えてしまうっす。
自分が、自由に生きられるのも、お金を稼げるのも、国家あってこそというか、
警察機構がとりあえずしっかりしていて、医療機構もとりあえずしっかりしていて、
インフラもとりあえずしっかりしているからだということを忘れちゃあかんと思うねん。
それをしている人には、とりあえず、税金という形で、
対価を払っているといいたいんだろうけど、その他大勢だって、
そこにいるからこそ、あなたもいられるんじゃね? という意味で、
そこにいるという対価を払うのはOKじゃね?



『イマヌエル・カント』

イマヌエル・カントの主張を正確に理解するのは難しいというのは、
実によくわかった。

マイケル・サンデルというフィルターが有るにしても、この人の、道徳的な行いが、
行いの前後に左右されないことが純粋な道徳だという主張は、たとえば、
人助けならば正義ということだろうけど、カントのいう、
動機が達成されるべき目的と同一であるときの、
動機とは何をもって正義と定義しようとしているのだろうか?
という疑問が結局払拭できないまま、サンデルさんはカントの話を終えてしまう。


「多数決が正義とは限らない」というのはわかるし、
「その途中にはたとえ正義とは思えない何かがあったとしても、
結果的によりよい効果がもたらさされるであろう過程」をもってして、
それを正義というのも、違うというのはわかる。

ただ、では正義とは何か?
ただ黙ってそこに突然、誰の目から見ても正義であるという概念や
動機なるものが発生するなんてありえないわけで、つまり、動機は、
動機として思考する以前に、
それを正義や道徳と思わせる何か経験とか伝聞が働いていると見るのが自然だろう。
だとすると、いきなり、カントのいう、
「純粋な動機」はその始まる前から崩壊していることになる。
「人間嫌いの男が純粋に人は助けなければいけないから助けた。」
という例えが紹介されているが、カントは、その助けた結果後に、
その人やその人の周りで何が起ころうが、
人間嫌いの男のしたことの道徳性は損なわれないとする。
人ごみでチェーンソーを振り回しながら暴れている男が、
勢い余って倒れ掛かったのでそれを助けることが道徳だからと
直感的に思ったから助けたら、
それは正義だったり道徳だったりするだろうか?
それがまかり通ってしまうと、
今度はカントが眉を潜めて嫌うリバタリアン的でさへあるように思えるわけだが。


というわけでの、助け舟的に、
サンデルさんはジョン・ロールズの話を持ち出している。
結局のところ、小理屈をこねくり回しても出てくる答えは、
多数決でしかないという解釈をしちゃうと実もふたもないのだろうけど、
無垢なる者、利害を持たないものが集まって、
これは正義これは悪と決めていくなんてことは、
どだい無理なシチュエーションだし、思考実験として試みた場合でも、
まずもって「正義」を定義するためには、悪を知らなければならず、
無垢なる者にそれが可能かという問題が発生する。
会議者の誰かが何かの弾みで誰かの顔なり肩なりに手が当たったとしよう。
当てた本人はそれが相手に対して不快な思いをさせていることだと知るには、
相手がそれを不快だと表明しなければならないが、
当てられた本人がそれを不快だと思う理由を見出せなければ、
何もなかったことと同じだ。
当てられた本人が、痛かったので不快だ。と表明しても、
あなたには痛かったかもしれないが我々は痛くなかった。
だから悪ではない。という結論が出れば、
不快だと思った方が少数派になってしまう。


徒競走の例も挙げられていた。みなが同じスタートラインに立ったとして、
だからみなが平等だとは限らない。そのスタートラインに立つ前に、
資産のあるものは、プロのトレーナーを雇い、十分な指導の元、
バランスの取れた食事をとり、優れた靴で練習ができるが、
貧乏な家に生まれればそうはいかない。
いかに自分のできうる限りの努力をしても、資産家の子供のようには走れない。
特別に例外事由があって、極端に速い子が現れる例は実際いにおこっているが、
そんなのは一般論として、適さない。

小学校で一時期「俊足」と呼ばれる靴が流行し、その靴を履けば、
徒競走での走破速度が上がるという理由から、運動会前になると、
親にねだる子供が大勢いた(実際には靴の効力はほとんどなく思い込みによるのだが)。
結局、人は、自分の意思で選択しているつもり、
自由意志による決定をしているつもりで、多数派を選び取り、
社会という一塊の流れに正義や道徳を感じる。


カント自身が考察した道徳や正義を、200年後の今に当てはめて考えるのは、
酷だし、カントの思想は、現在の民主主義のあり方の布石にはなったという功績はある。
しかし、今もって、カントの道徳の初めがどこから来るのかの答えは、
人には出せないでいるのだと思う。
少なからず、クリスチャンであったという影響が彼になかったとはいえまい。
聖書の書かれる以前から、人は、正義や道徳の形を模索してきたわけだし、
歴史はその模索と実験の実践上だったのだから。


家父長制度が当たり前だった時代、初めて上からではなく、
下から指導者を決めるという画期的な選択がギリシャでなされたとき、
多くの矛盾がギリシャを一流国家から、三流国家にまで押し下げた。
その轍を踏まない自決主義的民主主義がローマで長い歴史を刻んだが、
「自分たちで決めること」に疲れた人々によって、
ローマ帝国は消えた(滅んだのではなく文字通り消えた)。
その後の数百年、人が甘んじたのは、自決権ではなく、
他決により支配される方法だった。無責任で要られるし、
責任を支配者に押し付けることができるからだ。

近現代はどうだろうか?
日本、ドイツ、イタリアによる帝国主義が世界を二分する正義の片方であったし、
今も、共産主義という他決に依存する世界は存在し続ける。

では、民主主義、資本主義と呼ばれる、国々の人々が真の意味で自決できているのか?
産まれる前から決定されている、資力が及ぼす学力の差が、我々の進む方向、
そして嗜好を絶えず決定し続けている。
それが絶対悪だとはいえない。
それを悪にするのは、自分の選択が自由によらない結果だと知ることよりもむしろ、
甘んじることなのかもしれないし、持てる者の無理解によるともいえるかもしれない。
甘んじることは努力を止めさせ、無理解は無関心をはぐくむからだ。
それは同時に向上心を人々から奪う。


道徳や正義は結局、数百年を単位に、席を譲り合う形無き遺伝子反応なのかもしれない。



ここまでが、『これからの「正義」の話をしよう』を第6章まで読んだ上での感想。
全部で10章有るので、まだ道半ばというところ。


哲学というのはさまざまな人がさまざまなことを考えることを、
ひとまとめにして、結局結論はこうだという答えを出す作業ではない。
むしろ、それぞれの意見を出し合って貶しあい、あるいは意識を新たにして、
また別の思考を生み出す作業であると思う。
正直、哲学はパンも衣服もくれないという意見はある。
極論すれば、ユダヤ人を悪だと言い放ったヒトラーのそれも、彼なりの哲学だったし、
それを受け入れた人々は現実にいた。だから哲学は無駄なのか?
いやいや、無駄だと思うこともまた哲学なのだと思う。
哲学のいう正義は必ずしも多数決や弱者救済を諸手をあげて賛同すなんてこともしない。
単なる思考実験それが哲学かもしれない。
でも、小さなバクテリアがさまざまな多様性を武器に、生き残ってこれたように、
哲学もまた、さまざまな可能性を示すことで、
少しでも長く人類が生き延びるための多様性を示しているのかもしれない。



【今日の作品】【これからの「正義」の話をしよう】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

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